努力は才能に勝てない?

こんにちは薬剤師の赤羽です。

社会的に成功するために最も重要なことはなんだと思いますか?

「努力」こそが最も大事。なのか?

それとも「才能」や「環境」が大事なのか?

はっきりとさせていきたいと思います。

努力が大事という風潮

人は何者にでもなれる、いつからでも

これは中田敦彦さんのホームページに記載されている言葉です(1)。
非常に良い言葉で勇気づけられる人も多いのではないでしょうか?
しかし、これは本当に科学的に妥当な表現なのでしょうか?私たちは「努力次第で人は何者にでもなれる!」
と小さい頃から教わってきました。これは逆に言えば社会的に立場が低くなってしまった人たちに「自業自得」と言っているようなものです。現実に生まれた環境や、遺伝的資質には大きな差があります。この差を無視して、社会的に弱い立場の人を「自業自得」と切り捨てるのは果たして科学的、道徳的に正しいことでしょうか?私はそう思いません。

新自由主義の罠

新自由主義(ネオリベラリズム)が現代日本人の基本的政治思想です。この考え方は社会的成功は「努力」によってなされるものであり、成功者が得る報酬や地位は全て自分の力でなされたものと考えます。この考え方では成功者は敗者に対して一切の責任を負いません。敗者は努力することを怠った故に敗者なのだから救済する必要はないとする立場です。もちろん慈善で救済することは可能ですが、義務を負っているわけではありません(2)。

皆さんはこの考え方をどう思いますか?当然と思う人がほとんどで、この考え方に違和感を抱く人はいないと思います。日本では義務教育のなかで新自由主義の考え方を骨の髄まで染み込ませているのです(3)。新自由主義の教育方針は一言で言えば「実力主義」です。しかもその実力は努力で裏打ちされているという偽の真実によって正当化されています。「努力」が実力の差を正当化する手段に利用されているのです。「努力」できること自体はもちろん素晴らしいことですが、「努力」で「実力の差」が全て立証できるという部分がフェイクなのです。

新自由主義者は「地位や実力の差」が生得的であり、どうしようもないという事実にもちろん気づいています。しかし、それが生得的であれば人々が受ける報酬の差が大きくなるほど道徳的な説明が困難になることに困ってしまったのです。そこで「努力」を持ち出しました。「地位や実力の差が努力の差である」とみんなが信じてくれれば新自由主義者の思惑通りに「受け取る報酬の差」を思う存分広げることができるようになります。実際に新自由主義者の国、アメリカでは一般的な社員と社長の276倍の差がついているようです。これは実力で説明がつく差と言えるでしょうか?社長の方が社員よりも276倍優れていると言える合理的な根拠は一体なんでしょう?このような差を正当化するためにアメリカの社長は神格化されているのかもしれません(4)。

能力の差はどこから来るのか?

では、実際には能力の差はどこから来るのでしょうか?そのほとんどが「遺伝」と「環境」によるものであることが証明されています(5)。知能や性格、才能に関しては遺伝の影響が50%以上です。その他は自分ではどうにもならない運による出会いや環境によるものです。努力でどうにかなる余地は非常に低いと言えます。

外見に関しては努力によるものではないことは当然理解しているものと思います。身長、体重、身体的特徴は自分ではどうにもならないものです。才能や能力についても同じことが言えるというだけのことです。努力して身長を伸ばしたり、縮めたりすることは無理だと理解できるのに才能に関してはどうにかなると思い込まされているのです。

努力は無意味なのか?

このような理論を展開すると、努力は無意味なのか?という気がして、悲しくなる人もいるかもしれません。しかし、それは違います。新自由主義の世界の努力の意味はいわゆる「お勉強」が得意かどうかの意味でしかありません。いわゆる「お勉強」の遺伝的、環境的資質を持っている人は当然、「お勉強」の努力ができます。しかし「お勉強」にむける努力以外の努力が認められていないことが問題です。

その他の才能に向けての努力も「お勉強」と同等に評価される社会であれば問題ありません。

世間が強制してくる「評価」を気にせずに、自分の「好き」と向き合い、それに向けて努力することを道徳的善とみなす社会を作ることこそが重要なことです。

参考

1)中田敦彦 公式HP
2)つぎなる100年 歴史の危機から学ぶこと 水野和夫(東洋経済新報社)
3)八ヶ岳SDGsスクール
4)独立行政法人 労働政策研究・研修機構
5)日本人の9割が知らない遺伝の真実 安藤 寿康(SB新書)

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